義親はまだ元気だ。介護なんて、まだ先の話。頭ではそう思っている。
それなのに、ふとした瞬間に、心のどこかでこう思っていないだろうか。——たぶん、そのときは、私になる。
誰かにそう頼まれたわけではない。家族会議で決まったわけでもない。なのに、その予感だけは、なぜか消えない。
この記事は、その予感の正体を、あなたと一緒に言葉にするためのものです。介護のやり方を教える記事ではありません。介護が始まる前に、「自分の人生まで一緒に持っていかれない」ための、境界線の話です。
誰も「あなたがやって」とは言っていない。なのに、決まっている気がする
考えてみると、不思議なことです。
義親の介護について、誰かがはっきり「これはあなたの担当ね」と決めた場面は、たぶん一度もない。それなのに、通院に付き添うのは、施設のパンフレットを集めるのは、親の様子を気にかけて電話をするのは、なぜか自分になりそうな気がする。
これは、あなたが心配性だからでも、気が弱いからでもありません。役割というものは、多くの場合「決定」ではなく「漂流」の末に、誰かのところへ静かに着地します。そして着地する先は、たいてい、いちばん先に気づいてしまう人、いちばん断りにくい立場にいる人です。
まだ何も始まっていない今、あなたが感じている落ち着かなさは、この「漂流」を先に察知しているサインです。気のせいではありません。
なぜ、「私に来そう」という予感が消えないのか
その予感には、いくつかの心理の働きが重なっています。(以下は義実家の介護を直接調べた研究の結果ではなく、人が役割を引き受けてしまう仕組みを説明する、一般的な心理の話として読んでください。)
「いい嫁でいたい」だけが理由ではありません。気づいてしまう。放っておけない。自分がやった方が早い。夫に任せても進まない。そんな小さな理由が重なって、一度、二度と動いているうちに、「この人がやる人」という役割が、いつのまにかできあがっていきます。
そこにもうひとつ、「決めない」という状態が拍車をかけます。誰も分担を決めないまま時間が過ぎると、その空白は、いちばん近くにいて、いちばん先に気づいた人が黙って埋めることになる。決断していないのに、担当が決まってしまう。
つまり、あなたが「私になりそう」と感じているのは、性格の問題ではなく、構造の問題です。ここが分かると、責める相手も、責める自分も、少し置いておけるようになります。
「やって当然」は、法律上の当然ではない
ここで、地面をひとつ確かめておきます。
「嫁なんだから、義親の面倒を見るのは当然」——この“当然”は、感情や世間の空気の話であって、法律上の当然ではありません。
民法877条1項では、扶養義務を負う者として「直系血族及び兄弟姉妹」が定められています。義親の子の配偶者である「嫁」は、この中には含まれていません。
ただし、これは「誰が実際に手を動かして介護するか」を直接決める規定ではありません。また、特別の事情がある場合には、家庭裁判所が三親等内の親族に扶養義務を負わせることができる例外もあります。
それでも、はっきりしていることがあります。日常のなかで漂ってくる「やって当然」という空気は、法律が裏づけているわけではない、ということです。この一点を知っているだけで、「当然」という前提を、いったん立ち止まって見直せるようになります。
でも、やっても自動では報われない――この非対称に気づく
そして、ここには続きがあります。この続きこそ、早めに知っておいてほしいことです。
仮にあなたが献身的に義親を介護したとしても、子の配偶者である嫁は、原則として義親の法定相続人ではありません。どれだけ時間と体力を注いでも、それが自動的に「取り分」として返ってくる仕組みには、なっていないのです。
2019年7月1日に始まった特別寄与料という制度(民法1050条)では、相続人ではない親族が、無償の療養看護その他の労務によって義親の財産の維持・増加に特別の寄与をしたなど、一定の要件を満たせば、相続人に対してお金を請求できます。
ただし、これは「請求できる」制度であって、「自動でもらえる」制度ではありません。自分から相続人に請求し、要件を満たしていることを示す必要がある。黙っていて向こうから差し出されるものではないのです。
相続については、原則として法定相続人ではない。それでも、介護では自分が動く場面が出てくるかもしれない。この「権利」と「負担」が必ずしも同じ人に重ならないことは、介護が始まる前に知っておきたいことです。
本当の問題は、「やるかどうか」ではなく「決めていないこと」
ここまで来ると、問いの立て方が変わってきます。
多くの人は、介護を「やるか、やらないか」の問題だと思っています。でも本当の問題は、その手前にあります。——まだ、誰も決めていない。ただそれだけなのです。
決めないまま介護が始まると、役割は漂流し、いちばん先に気づいて、いちばん断りにくいあなたのところへ着地します。決めた覚えのない仕事が、決まってしまう。
いざ介護が始まると、目の前の対応が優先されます。病院への付き添い、介護サービスの手続き、仕事との調整。ひとつ対応するたびに、「じゃあ次も」と役割が続いていくことがあります。
もちろん、始まってからでも分担を話し合ったり、見直したりすることはできます。でも、そのときにはもう、使える時間も、選べる方法も限られているかもしれません。
まだ誰も担当になっていない今なら、「誰が何をするのか」だけではなく、「家族だけで抱えないために、どんな方法があるのか」まで考える時間があります。介護が始まってからでは何もできない、ということではありません。まだ平気な今だからこそ、選べることが多いのです。
だとすれば、今できる備えは、介護のやり方を一人で勉強しておくことではありません。誰が何をするのか。家族では難しいことを、誰に頼るのか。そして、自分はどこまでならできて、どこから先は引き受けないのか。介護が始まる前だからこそ、その選択肢を家族で考えておくことができます。大事なのは、「自分が何をやるか」を増やすことではありません。「自分がやらなくていいこと」まで含めて、選べる状態をつくっておくことです。
完璧な線引きはいらない。まず、ひとつ
とはいえ、「あれもこれもやりません」と宣言する必要はありません。境界線は、完璧である必要はない。まず、ひとつでいいのです。
たとえば、「金銭の管理には関わるけれど、平日の通院の送迎は仕事があるからできない」。「様子を見に行くことはするけれど、義親と同居して介護することは考えていない」。どんな線でも構いません。
そして、その線を最初に伝える相手は、義親ではありません。夫です。
このサイトが何度も立ち返るのは、「夫が動かないなら、妻はどう自分を守るのか」という問いです。介護においてそれは、「私はここまではやる。でも、ここから先はあなたの親のことだから、あなたと分け合いたい」と、義親の介護が現実になる前に、夫との間で一度言葉にしておくことから始まります。
ただ、夫がすぐに向き合ってくれるとは限りません。だから最初から「二人できれいに分担を決める」ことをゴールにしなくていい。まずはあなた自身が、「ここまではできる。でも、ここからは私一人では引き受けない」と、自分の線を知っておく。それも立派な準備です。
空気に流れて決まるのではなく、たとえ小さくても、自分の側に一本、線を引いておく。それだけで、漂流の行き先は変わります。
介護そのものを拒む記事ではありません。大切な人を支えたい気持ちは、あなたのものです。ただ、その気持ちが「気づいた人がやる」という空気に飲み込まれて、あなたの時間も、お金も、老後までもが、決めた覚えのないまま削られていくのは、別の話です。
漂流を、決定に変える。それが、自分の人生を義実家に削らせないための、最初の一歩です。
